こんなんだったっけ日記

さよなら はてなダイアリー

葵(七・八)、賢木(一)

10日
 新大系の区切りで41から46(うち見まはし給に〜あさましうおぼさる)。
 源氏が若紫と夫婦関係(という言葉も、なんかなあという感じ。動物が交尾するのを「結婚する」と言うのと理屈としては同じである)を持つ。それはいいのだが(いいとしよう)、その事実が「(若紫は)たださる方のらうたさのみはありつれ・・・(源氏は)忍びがたくなりて、心ぐるしけれど」とか、「おとこ君はとく起き給て、女君はさらに起き給はぬあしたあり」なんて表現で通じてしまう、そのコンセンサスが凄い。
 少納言の乳母は、「(源氏が)やむごとなき忍び所多うかかづらひ給へれば、又わづらはしきやたちかはり給はむと思ふ」。葵が去ってもまた別のが北の方の座に就くかも知れんということだが、逆に言えば葵の死は紫方にしてみれば一つの吉報だったというわけである。政治的というのか、これも怖い話ではある。貴族の物語ならではという感じ。


11日
 47から帖末まで(昼つ方〜)。
 葵の名を冠した帖で、その葵さんが死んでしまうのに、帖終盤では紫の上に浮かれる源氏が描かれているというのは、こりゃどおゆうことか。いいのかこんなので。そして張り切る惟光。
 他の女のところへ行く気がしなくて、「世中のいとうくおぼゆるほど過ぐしてなむ、人にも見えたてまつるべき」と方々に手紙で弁解する。葵さんの死を盾にしているわけだ。サイテーではないか。声を大にして言いたい。サイテーですよこいつは!
 帖末は年明けの大殿の風景で、昨年までは夫婦の服が掛かっていた衣桁に、男の服しか掛かっていない今、なんて寂しい描写がありつつも、源氏は「新婚」なわけで、その寂しさに感情移入できない(無論、大殿側に立ってみればまた非常に複雑な気分に浸れるが)。
 ところで、「大空は恋しき人の形見かは〜」の歌(を基にする表現)の近くに、「行く先の知れぬ涙の悲しきはただ目の前に落つるなりけり」という歌(を基にする表現)があったと思うのだが、気付かないまま葵帖を終えてしまった。「大空は〜」のすぐ後だか先だかに見て、すげえ歌だ!と感動した記憶があるのだが。


12日
 賢木帖、新大系の区切りで7まで(〜ところせきこと多くなむ)。
 全く以て今更な話ではあるが、賢木(榊)というのは六条御息所のことなのだ。
 伊勢に下らんとする御息所に対して源氏、「今はとかけ離れ給なむも、口惜しくおぼされて」。判らんなあこの心理。しかりともあれこの後描かれているのは源氏と御息所、自分の妻を殺した女との、ロマンスに外ならない。これもやっぱりホラーの範疇ではないか。
 「(源氏)の月影の御かたち、猶とまれる匂ひなど、若き人々は身にしめて、あやまちもしつべくめできこゆ」。「あやまちもしつべく」は脚注に「不謹慎なことをしてしまいなほど」とありますが、一体どういうことでしょうか。
 あと、女房目当ての若い貴公子たちが庭にたむろしているというつくづく異常な描写もある。
 「おとこは、さしもおぼさぬい事をだに、なさけのためにはよくいひつづけ給ふべかめれば」って、語り手にこんな風に規定されてしまう男がヒーローたり得るというのは一体どういうことでしょうか。「頭中将は好色だが、源氏は好色ではない」とサイデンステッカーさんか誰かが言っておられた気がするが(さいざんすか)、どこがやねんと言いたくなる。
 「何ごとも、人にもどきあつかはれぬ際はやすげなり。なかなか世に抜け出でぬる人の御あたりは、ところせきこと多くなむ」。なるほどそうなのでしょうね。

 全く余談であるが、この範囲はゼリ→の『RODEO★GANG』(名盤)を聴きながら読んでいたのだが、「くやしき事多かれど」というところでちょうど「イナズマ」の「悔しいけれど・・・」というのが聞えてきて、可笑しかった。しかしゼリ→、どうなるのでしょうね。新しいドラマーを加えた四人で、別の名前で12月に赤坂BLITZで演るという話を人づてに聞きましたが、本当かしらん。既に一回演っているそうだが、その12月のが本格再始動になるというハナシ。