新大系で31〜帖末(九月廿日〜)。
右近によると、夕顔は「(方違えに来た源氏に)見あらはせたてまつりぬることとおぼし嘆くめりし。世の人に似ずものづつみをし給」。本当かよ。じゃあ例の「心あてにそれかとぞ見る・・・」の歌は、夕顔からのものではなかったのか。あれを見る限りは自分からアピールしていったようにしか見えない。
遺児について源氏、「さていづこにぞ。人にはさと知らせでわれに得させよ」。このテの場面が後にも幾つかあった筈だ。ちゃんと覚えていないけど、若紫とか浮舟(これはもう源氏じゃないが)とか。もの凄い勝手さである。安っぽい倫理を振りかざすようだが、今既に養育をしている人の心情というものが考えられないのだろうか。夕顔にしたって、行方不明を心配する(そりゃあ心配するだろう。猫が家出したというのとはワケが違うのだから)人がいるんですが、騒がせちゃあならんなどという全く要領を得ない理由によりはぐらかすのである。
見し人の煙を雲とながむれば夕べの空もむつましきかな
物にこと寄せて、というのは王朝和歌によく見られるパターンであるが(すいません。よく知らない)、これも良い歌である。
新大系での句切37の題は「物の怪の正体」である。脚注を見るに、「死霊であって生霊のたぐいではない」と書いてあってびっくりした。六条御息所と信じて疑わなかったのである。じゃあ誰なんだ。同じく脚注に「物の怪の正体が明かされるところ」とあるが、私の頭が悪いのか、全然明かされたように感じない。
空蝉。「気丈な女性」みたいな印象があるように思うが、結構こっちから手紙書いたりしてるじゃないか。「問はぬをもなどかと問はでほど経るにいかばかりかは思ひ乱るる」なんて、関係を繋ぎ止めたいようにしか思われない。それでいて「け近くとは思ひ寄らず、さすがに言ふかひなからずは見えたてまつりてやみなんと思ふなりけり」というのはどういうことか。文通相手でいたいとでも言うのか。