こんなんだったっけ日記

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穂村弘『本当はちがうんだ日記』(2005年、集英社)

 穂村弘のエッセイ集『本当はちがうんだ日記』を久しぶりに読み返している。穂村氏は歌人として著名であるが、エッセイの名手でもある。何が経緯で彼の著作を読もうと思ったのかは記憶にないが(『本の雑誌』の連載でも読んだのかな?)、ともかく最初に読んだ彼の本がこの『本当はちがうんだ日記』であった。たぶん刊行間もない頃、高校3年生の時分だったと思う。
 お気に入りのエッセイストを見つけることは、間違いなく私の人生における小確幸の一つであるが、本書を読んだ瞬間に穂村弘は私のお気に入りのエッセイストに仲間入りした。本書の書名はこのブログの名前の由来の一つにもなっている(もう一つの由来はサーフィスの曲名)。
 私が好きなエッセイスト(村上春樹中島らも柴田元幸椎名誠丸谷才一土屋賢二さくらももこナンシー関、宮城道雄、内田百閒、寺田寅彦 etc.――職業としてのエッセイストはごく少ない)は、大凡次のような要素を兼ね備えているように思う。

(イ)物事や事象を評価・評論する能力がある。
(ロ)面白いエピソードや知識を持っている。
(ハ)それらを面白く文章化できる。

 穂村弘も、もちろんこれに当てはまる。例えば本書の冒頭に置かれた「エスプレッソ」という一編はこんな話。私はエスプレッソが好きだ。果実の薫りと、キャラメルの味わいを持つ優雅な飲み物。しかし実際に飲んでみると、苦い。地獄の汁のような味がする。


 それにしても、私のエスプレッソがこんなに苦いのは何故なのだろう。果実の薫りとキャラメルの味わいの飲み物が、地獄の汁に感じられるのは何故か。それは、おそらく、私自身がまだエスプレッソに釣り合うほどの素敵レベルに達していないからだ。私の素敵レベルは低い。容姿が平凡な上に、自意識が強すぎて身のこなしがぎくしゃくしている。声も変らしい。すぐ近くで喋っているのに、なんだか遠くから聞こえてくるみたい、とよく云われる。無意味な忍法のようだ。(p.9)


 何度読んでも唸らされる。まず、「私のエスプレッソがこんなに苦いのは何故」という問いの立て方が尋常ではない。私のエスプレッソ、という捉え方が我々凡人にはできない。これを自身の「素敵レベル」に準えて考える(この辺りまでは上記のイ)のは、氏のエッセイにしばしば見られる観点であるが、「容姿が平凡」「ぎくしゃく」辺りはまあ私にでも挙げられるが、そこでセンテンスを区切ってスッと「声も変らしい。」と来るのが凄い(上記ロ・ハ)。極め付きは「無意味な忍法のようだ」という的確且つ意表を突く比喩(上記ハ)。つい笑わされてしまう。
 笑えるのも非常に大切だが、批評家として信用できるということも大切だ。氏は、『文藝』2009年夏号での谷川俊太郎との対談の中で、次のように述べている。


 僕は詩には共感(シンパシー)と驚異(ワンダー)という二つの要素があると思っていて、いわゆる一般の読者や世間というのは圧倒的にシンパシー重視なんです。何かを読んだ時、まずそこに共感をみようとするし、シンパシーを寄せようとする。でも、詩歌の第一義的な力はワンダーのほうであると僕は思う(後略)


 私もそう思う。そんな穂村弘の代表的な短歌の一つ。


  嘘をつきとおしたままでねむる夜は鳥のかたちのろうそくに火を


 まさにワンダーである。明らかにワンダーの側に立っているのに、シンパシーさえも感じさせてしまうところに氏の歌の力がある。