こんなんだったっけ日記

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『阿久悠+和田誠『A面B面 作詞・レコード・日本人』(1985)文藝春秋

 ピンク・レディーについてしっかり一項が設けてあります。和田誠によるPLのイラストレーションが見られるのが嬉しい。元々ミーとケイは揃いのサロペットでフォークを歌っていて、芸名も「白い風船」なんてのが好みで、「ペッパー警部」には抵抗があったようだ、という、『あこがれ』を一度でも読んだ者なら卓袱台をひっくり返したくなるようなことが書いてある。こういう表現は割と頻繁に目にするが、他ならぬ阿久悠がこう書いてしまったのだから仕方ないということか。でも『あこがれ』刊行後の本でも相変わらず書いてあったりするけれども。
 次のやり取りは興味深い(Wは和田、Aは阿久)。

W 結局、あのコンビは二年間ていうことですか。
A 二年半ですね。それでも、ぼくが考えていたより一年半長い(笑)。

 『S・O・S』に始まって、『ジパング』まで含むとギリギリ二年半になるか。まあ二年でいいような気がするけど。いづれにせよ、ブームの大きさを思えば、これはかなり長い期間と言えると思う。

W ピンク・レディーの絶頂の頃、うちの子どもが三つくらいで、好きでね、よくレコード買いましたよ。しかしたいへんな人気でしたね。歌もムダ球がなかったみたいで。

 この「うちの子ども」というのは、トライセラトップス和田唱である。彼自身、十年以上前の『ロッキングオン・ジャパン』のインタビューで音楽に関する最初の思い出として、三歳くらいの頃に店の中でピンク・レディーが流れるのを聴いて妙に関心を示し、「これ何?」と祖母に尋ねたということを語っている。『FUTURE ROCK』という本でも同様のことを語っていた筈である。どちらも今手元に無く引用できないのが残念。
 「歌もムダ球がなかった」という点はよくよく認識されるべきである。

 PLの歌の題材としては海底探検や大統領選挙も使いたかったという。聴きたかったですね。
 ところで和田誠には『日曜日は歌謡日』という素敵な題の本もあるが、こちらには岩崎宏美は出てくるがピンク・レディーは出て来ない。単に、PLのデビュー前に出た本だからである。本人も「もうしばらく連載を続けていたら、例えばピンク・レディーについて必ず書いていただろう」とある。連載は昭和五十二年の始め頃までだったようである。まだクッキーのころか。残念。


 あと、阿久悠がまづタイトルを決めてから歌詞を書くということは何度も読んだことがあったのだが、沢田研二の項でそのことを強調しているのを読んで、確かにピンク・レディーの一連の曲を見ても、タイトルの魅力というのは感じられるなということを今更ながらに思いました。
 次の発言も興味深い。

 ぼくが演歌たくさん書いてるように人は思うんですけどね、(略)数にしたら、ほんと、たいしたことないんですけどね。番組つくったりすると、そのたいしたことない数の演歌が使われる。自分じゃ、ほんとに好きな沢田の歌だとか、カプリシャスの歌だとかっていうのはね、あんまり出てこない。ましてや、ピンク・レディーに至ってはね、そんなのあったか、という言い方ですからね。(140ページ)

 この「そんなの」というのが、「マンデー・モナリザ・クラブ」なんかを指すのだとしたら、まあ判るのであるが、文脈からするとひょっとしてヒット曲群を指しているようにも思える。とすると、阿久悠の代表作から「ピンク・レディー」が消えかけていた時期があったということで、実に恐ろしい話である。まあ最近の阿久悠特番でもPLは随分ないがしろに扱われている場合があるけれども。