こんなんだったっけ日記

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末摘花(三・四)

26日
 新大系で12から17(二条の院に〜出で給ひぬ)。
 末摘花の顔をしかと見てしまった、という場面。「何に残りなう見あらはしつらむと思ものから、目づらしきさまのしたれば、さすがにうち見やられ給ふ」って非常によく判りますね。汚い例えで恐縮だが、うんこに触れてしまったことは明らかなのについ匂いを嗅いで確かめてしまう心情によく似ている。正に普遍。
 「着たまへるものどもをさへ言ひ立つるも、もの言ひさがなきやうなれど」というのもいい。「さへ」が光っている。この「もの言ひさがなさ」につい至ってしまう点も、千年を全く感じさせない、人情である。

 ところで、現代の感覚で美しいとされる人が、別の時代や地域では醜いとされるということがある。それで、とある時代のとある国に暮す、我々からすると大変綺麗な人が、鏡で己の顔を眺めて、ああ自分はどうしてこんなに醜く生れてしまったのか、と嘆いたり、逆に我々にはとんでもないブスと見える人が、まわりからちやほやされて、貴公子から求婚されて、こちらも鏡を覗き込み、自分の「美しさ」にうっとりしたり、あるいは自らの「美」が引き起こす煩雑さに嘆息を洩らしたりする、そんな場面を思い浮かべて滑稽に思うことが、僕は時々あるのだけれど、この末摘花の話を読んでいてそのことを改めて思い出したんだ(何故だか途中から文体が庄司薫になった)。つまり、こういう考えは既にどこかで述べられていると思うけれども、末摘花さんは、現代の美的感覚からすると「美人」かも知れないのだ。それも、鼻の大きさが強調されている点からすると、西洋的な美人かもしれない。『あさきゆめみし』の描写に惑わされてはならない。

 しかし、「ただ、「むむ」とうち笑ひて、いと口をもげなるもいとおし」って、これもまた目に浮かぶようだ。
 

27日
 18から帖末まで(御車よせたる〜)。
 門番をしている爺さんがボロ門を開けようするが上手く開かない。それを娘だか孫娘だかがいかにも寒そうに、カイロを手にしつつ「寄りて引き助くる」のだが、門は「いとかたくななり」。
 どう考えても話の進行としては「ムダ」な描写なのだが、これがまたホントに、何度も言うようだが目に浮かぶようなのだ。源氏物語を読む本当の楽しさはこういう描写を拾っていくことにあるのではないか。紫式部は本当に優れた作家だ。再々読にして判ってきました。
 あと、これも有名なシーンだが、源氏が末摘花の絵を描いて若紫と遊ぶところ。自分の鼻に紅をつける源氏を見て、「さもや染みつかむとあやうく思」う若紫。完全に時を越えている。その後の、拭ったフリをして「紅が取れない!」と言う源氏、これは(今更言うのもナンだが)モロに『ローマの休日』のグレゴリー・ペックじゃないか。 
 
 最後の「かかる人々の末々、いかなりけむ」というのは、NHKの朝ドラのナレーションみたいでいいですね。まあ観たこと無いんだけどさ。